LOGIN社交界に、神崎夫婦の離婚問題以上の大きなニュースが伝わった。――鷹宮財閥の鷹宮正隆が引退し、神崎和真が当主を引き継ぐ。その知らせは瞬く間に政財界へと広がり、各方面から驚きの声が上がった。長年、鷹宮財閥を率いてきた正隆の引退。そして、その後を継ぐのが、孫・心春の夫である神崎財閥の次男である和真だという。当主交代という大きな出来事によって、正式な就任祝いのパーティーが開かれることとなった。鷹宮の家では、玲司と綾乃が呼ばれ、和真と心春と一緒に、正隆の前に座っていた。正隆は、四人の顔をゆっくりと見渡した。その表情には、長年にわたって鷹宮を背負ってきた男だけが持つ、穏やかな重みがあった。「みんあに集まってもらったのは他でもない。私の引退と、和真の当主就任についてだ」その話をするために集められたのだから、居合わせた全員がそのことを知っていた。特に異論を唱える者もいない。むしろ、ここまで来たのだという、静かな覚悟がそれぞれの胸にあった。一番に、綾乃が正隆に聞いた。「お父さん、それなら退任と就任のパーティーを開きましょうよ。お父さんも公の場で、今までお世話になった方々に、話したいこともあるでしょう?」綾乃の言葉に、正隆はゆっくりと頷いた。「ああ、ずいぶん長い間、この鷹宮の当主を務めさせてもらった。そのお礼も込めて、パーティーは開きたいと思っていたんだ」その言葉を口にした正隆の胸には、これまでの日々が次々と蘇っていた。苦しい時期もあった。決断を迫られ、眠れない夜を過ごしたこともあった。それでも、今日まで鷹宮を守ってこられた。そして今、その役目を次の世代へ渡そうとしている。――もう、私の役目も終わりに近づいているのだな。寂しさがないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、娘と孫娘、そして和真がいることへの安心感があった。綾乃も頷くと、和真と心春の方を向く。「今回は、お爺ちゃんの退任でもあるけど、和真の就任祝いも兼ねるパーティーだから、心春が中心になって準備を進めなさい」心春が驚いて顔を上げた。「私が……?」思わず、声が漏れそうになる。今までは九条の家でも、自分は子どもという立場で、パーティーなどは呼ばれるばかりだった。それが今度は、自分たちが中心になって準備する。その言葉を聞いても、まだ実感が湧かなかった。正隆はそんな心春
やがて、神崎壮真と神崎美玲が離婚をするのではないか――そんな噂が、財界のあちこちで囁かれ始めた。最初は、社交界で交わされる単なる噂話に過ぎなかった。だが、名門一族の夫婦関係が、単なる家庭内の問題で終わらないことを、この世界にいる者たちはよく知っている。噂は社交界から政財界へ。そして、金融機関や取引先へと、まるで水面に落ちた一滴のように広がっていった。特に注目されたのは、鳳条財閥との関係だった。神崎と鳳条。両家の結びつきは、単なる姻戚関係ではない。長年にわたり、人的な交流だけでなく、資金面や取引面でも深い関係を築いてきた。だからこそ、財界では以前から囁かれていた。――鳳条財閥との関係が崩れれば、神崎財閥はもう終わりだろう。そして、その懸念は今回の離婚話によって、一気に現実味を帯び始めた。さらに以前から、神崎グローバルトレーディングの社長、神崎壮真については、経営手腕の無さが取りざたされていた。もとより、神崎壮真は神崎財閥当主の長男というだけで、神崎財閥を率いるほどの人脈もなく、神崎グローバルトレーディングにおいては、投資案件ですら、壮真の愛人が口出しをしていることは有名だった。経営判断の根拠が曖昧。投資先の収益性も十分に検証されていない。資金調達は短期借入に偏り、資金繰りの余裕も失われている。そこへ、鳳条からの資金援助まで細ればどうなるのか。金融機関は、単に「神崎家の夫婦が離婚する」とは見ない。支援者を失った企業が、これまで通りの信用力を維持できるのか。借り換えは可能なのか。既存の融資枠は維持されるのか。取引先は、神崎との長期契約をそのまま続けるのか。そうした一つ一つの疑念が積み重なれば、企業の信用は数字以上の速さで崩れていく。そして神崎財閥のすべての流れを知っている、「社交界の氷の女王」神崎美玲が離れれば、経済を回すブレインさえ居なくなる――そんな見方まで広がっていた。「神崎社長が離婚をしたら、神崎夫人は今までの責任をすべて追及するだろう」「あの社長の愛人も、慰謝料請求の対象だろう?いったいいくら請求されるのか、こりゃ、見ものだな」そんな声が、まことしやかに囁かれる。だが、玲司の耳に入ってきた時には、単なるゴシップとして聞き流せるものではなくなっていた。九条家を率いる玲司にとって、企業の信用がどれほど脆いも
玲司が持ってきた書類の束は、神崎グローバルトレーディングの財務諸表だった。それは単なる決算の数字を並べた書類ではない。そこには、神崎グローバルトレーディング、そしてその背後にある神崎財閥が、長年にわたって積み重ねてきた経営上の歪みが、はっきりと数字として表れていた。正隆は、もう一度その書類に目を落とした。―――これは、かなり危ない。長年、財界で生きてきた正隆には、その意味がすぐに理解できた。無理な海外投資。過剰な借り入れ。関係会社への資金流出。採算の悪い事業への投資。そして、短期借入金への依存。一つだけなら、必ずしも致命的とは言えない。企業というものは、成長のために借り入れを行うこともあるし、将来性のある海外事業に先行投資することもある。問題は、それが何年も繰り返されていることだった。しかも、その投資から十分な利益が生まれていない。つまり、借りた金を使って事業を拡大しているように見えて、実際には会社自身が十分なキャッシュを生み出せていない。正隆は眉間に皺を寄せた。貸借対照表を見るだけでも、その危険性は明らかだった。流動資産に対して、短期的に返済しなければならない流動負債が膨らんでいる。流動比率は、企業の短期的な支払能力を見る基本的な指標だ。流動資産を流動負債で割って算出する。さらに厄介なのは、流動資産の中身だった。帳簿上の資産が存在していても、そのすべてがすぐに現金になるわけではない。売掛金は回収するまで現金にはならない。在庫は売れなければ資金にならない。海外投資に使われた資金などは、なおさら簡単には戻ってこない。つまり、帳簿上の「資産」があることと、目の前の支払いに使える「現金」があることは同じではない。そして、さらに問題なのが短期借入金だった。長期的に回収するつもりで投じた資金を、短期の借入金で賄っている。これは資金繰りを非常に不安定にする。借り換えができなければ、一気に資金が詰まる。しかも、営業活動から十分なキャッシュが生まれていなければ、借入金の返済どころか、日々の運転資金まで新たな借り入れに頼ることになる。――借金で借金を返す経営になっている。正隆には、そんな構図が見えていた。そして、利益だけを見ても安心できない。本業でどれだけ利益を上げているのか。その利益が、実際の現金収入につながっ
「まずは、昨夜の報告を」そう言い、玲司はスーツの内ポケットから一枚の書類を取り出した。昨夜、一ノ瀬生命科学総合研究所から受け取ったばかりのDNA鑑定書だった。玲司は余計な説明をせず、それを正隆の前に広げて置いた。正隆は静かに書類を手に取る。そして、まず隣に座る和真の顔を見た。和真は何も言わず、小さく頷いた。その仕草だけで、正隆には十分だった。正隆はゆっくりと鑑定結果へ視線を落とした。一行。また一行。文字を追ううちに、その表情からわずかな緊張が消えていく。昨夜まで、この件がどう転ぶのかは誰にも分からなかった。もし、和真と康太の間に親子関係が認められていたら――。心春は、どれほど傷ついただろう。夫を信じていた心春にとって、それは単なるDNA鑑定の結果では済まない。夫婦の間に深い亀裂を残す可能性すらあった。正隆はそのことを考えながら、書類から目を離せなかった。隣に座った和真には、その鑑定結果を見た正隆が、小さく息を吐くのがわかった。それは安堵の息だった。正隆はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げ、玲司の顔を見る。「心春が傷つくことにならずに済んで、良かった」短い言葉だった。だが、その声には孫娘を案じる祖父としての思いが滲んでいた。玲司も静かに頷く。そして、和真の顔を見た。和真は二人の視線を受け止めると、深く頭を下げた。「お二人には、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」和真自身も、昨夜から何度も考えていた。自分に非があるわけではない。それでも、心春がこの問題に巻き込まれたことへの責任は感じていた。ましてや、鷹宮家に婿として入っている自分が、家族を不安にさせた。その思いが、頭を下げる和真の胸に重く残っている。玲司はそんな和真を一瞬見つめると、正隆へ視線を戻した。「……そして、もう一つあります」そう言って、玲司はスーツの胸ポケットから、もう一つ書類を取り出した。先ほどのものより、明らかに分厚い。正隆はその厚みに目を留めた。「……?」玲司は何も言わず、丁寧に書類を開いた。そして、正隆の前に広げて置く。正隆も眉をひそめながら、それを手に取った。最初のページ。続いて次のページ。そこに並ぶ数字や記録に目を通していくうちに、正隆の表情が変わっていった。先ほどまでの安堵が消える。眉間に深い皺
鷹宮ホールディングスの最上階。この、空に向かってそびえ立つ巨大なビルの最上階の一角に、鷹宮ホールディングス会長・鷹宮正隆の執務室があった。壁一面に広がる大きな窓からは、大都会の街並みが一望できる。無数のビルが立ち並び、その間を縫うように車が走っている。かつての正隆なら、その景色を見れば、この街のどこに鷹宮の力が及んでいるのか、そして次にどこへ手を伸ばすべきなのか――そんなことばかりを考えていた。だが、今は少し違う。すでに七十歳を超えた正隆は、毎日出勤することもなくなっていた。会長としての仕事も、孫婿である鷹宮和真に任せることが多くなっている。もちろん、まだ隠居するつもりはなかった。長年守り続けてきた鷹宮を、簡単に手放せるほど、正隆は割り切った人間ではない。それでも――。正隆は大きな窓の前に立ち、大都会の景色を静かに見下ろした。七十年を超える人生。振り返れば、長かったような、短かったような、不思議な感覚だった。そして、ふと自分の手を見つめる。昔はもっと力強かった手も、今では皺が増え、年齢を隠せなくなっている。正隆は小さく息を吐いた。「そろそろ私も引退だな………」口に出してみると、その言葉が思いのほか胸に響いた。寂しくないと言えば嘘になる。鷹宮のために生きてきたような人生だった。それを、自分の手から次の世代へ渡す。頭では分かっていても、心がすぐに追いつくわけではない。そんなことを考えていたときだった。コン、コン――。ドアをノックする音が響いた。「会長、九条会長がいらっしゃいました」会長付きの秘書が顔を出す。正隆は振り返り、静かに頷いた。「そうか」それだけ答えると、正隆は窓際から離れ、大きなソファへと移動した。ほどなくして、部屋のドアが大きく開く。入ってきたのは、九条玲司だった。「お義父さん、少し話があって参りました」玲司は会釈をし、正隆の返事を待つ。正隆は立ったままの玲司を見上げた。そして、ふと胸の奥に懐かしい記憶が蘇る。――あの日。娘の綾乃を、この男に嫁がせた。あの頃は、父親として不安がなかったわけではない。玲司は冷静で、決して感情を表に出す男ではなかった。仕事では厳しく、時には冷酷とさえ思えるほどの判断をする。そんな男に、大切な一人娘を託していいのか。正隆自身、何度も自問した。
その日の夜――。壮真は珍しく自宅へと直行していた。いつもなら、仕事を終えれば玲子の待つ場所へ向かう。玲子と酒を飲み、他愛もない話をしながら、仕事や神崎家のことを忘れる。それが、ここ最近の壮真にとって当たり前になっていた。しかし、今日は違った。昼間、康太との親子鑑定の結果を見た。自分と康太の間に、明確な答えは出なかった。それは壮真にとって、安堵すべき結果だったはずだ。和真の子どもだと証明されることもなかった。自分の子どもだと証明されることもなかった。なのに――。胸の奥には、妙な高揚感が残っていた。それが何なのか、自分でも分からない。だからこそ、今日は玲子と一緒に居る気にはなれなかった。車を降りる。夜の冷たい空気が頬を撫でた。壮真はコートのポケットに手を入れながら、神崎家の玄関へ向かって歩き出した。その途中――。ふと、足が止まった。「…………」視線の先には、見慣れた庭。何度も歩いた場所。何年も暮らしてきた、自分の家。なのに今夜は、そこに立っていることが妙に息苦しく感じられた。そして、脳裏に浮かんだ。あの日――。振り返って見た、雪乃と康太の姿を………。雪乃。そして、その隣にいた小さな少年。なぜかその光景だけが鮮明に残っている。(……俺は、何を考えているんだ)壮真は小さく息を吐いた。美玲とは政略結婚だった。もちろん、結婚した当初からそのことは分かっていた。神崎家にとっても、鳳条家にとっても必要な結婚。愛情よりも家と家との関係。利益と利益。互いの立場を理解した上で結ばれた関係だった。けれど――。壮真は雪乃を愛していた。あの頃の自分は、本気だった。神崎の家など、どうなってもいい。雪乃と一緒になれなければ、生きている意味がない。そんなことを考えもした。今思えば、あまりにも青臭い考えだったのかもしれない。それでも――。あの頃の壮真には、それが偽りのない気持ちだった。しかし、現実は残酷だった。当時の神崎の財政状況。神崎家を取り巻く事情。父・正蔵からの懇願。そして、神崎ホールディングスの取締役たちからの圧力。「お前が神崎家を背負うんだ」そんな無言の重圧が、壮真の肩にのしかかっていた。家を捨てる。それは、自分一人の問題ではなかった。神崎家で働く多くの人間。取引先。社員。







